■津軽地方(つがるちほう)とは、現在の青森県西部を指して言う地域呼称。藩政時代に津軽氏が支配した領域(弘前藩・黒石藩の領域)及び津軽郡の領域にほぼ相当する。分割後の陸奥国(青森県全域と岩手県西北部)の異称「津軽国」とは異なる。
広義の津軽地方は、弘前市を中心にした南部の「中弘南黒地区」、五所川原市を中心とした北西部の「西北五地区」、青森市を中心とした北東部の「東青地区」の3つの地区で構成される。津軽と呼ばれる地域が津軽平野南部から拡大してきた歴史的な経緯から、中心を中弘南黒地区と見て、中弘南黒地区のみ、あるいは、中弘南黒地区と西北五地区の2つの地区で狭義の津軽地方とする場合もある。
狭義を用いる場合は、東青地区は「青森地方」などと呼ぶ。また、岩木川がつくる津軽平野を中心とした地域圏と認識される場合もある。なお、西北五地区から津軽半島にかけての地域を奥津軽と呼ぶこともある。
夏泊半島(平内町地域)は鎌倉時代の初めまでは糠部郡の一部であり、陸奥湾岸(青森市と東津軽郡の地域)は外ヶ浜といわれ、中世までは津軽に含めないこともあったが、近世以降は津軽郡が設置されてその一部となった。
また、西南端域(旧岩崎村地域)は中世までは出羽国檜山郡に含まれていたと推定されている が、慶長8年(1603年)に津軽氏と佐竹氏の交渉により津軽領となった。
■歴史上の初出は655年『日本書紀』の斉明天皇元年の記述で、このころは「津苅」と書いている。ほか「東日流」「津刈」「都加留」などと表記されたこともある。中世には「平賀郡(津軽平賀郡)」「鼻和郡(津軽鼻和郡)」「田舎郡(津軽田舎郡)」の3つの郡(山辺郡(津軽山辺郡)」が分立していた時期は4つの郡)に分けて把握され、「津軽三郡」(または「津軽四郡」)と言われた。
鎌倉時代は安東氏などが支配したが、14世紀になると、南部氏が支配するようになる。戦国時代に津軽氏が支配した。近世になると、それまでの「平賀郡」「鼻和郡」「田舎郡」の3郡がまとめられて「津軽郡」となる。明治維新のあと、青森県の一部となる。1878年(明治11年)、東津軽郡・西津軽郡・南津軽郡・北津軽郡・中津軽郡に分けられた。
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