佐野天明(命)鋳物の歴史
天明鋳物の歴史は古く平安時代(へいあんじだい)にさかのぼり、天慶(てんぎょう)2年(939年)に、下野国(しもつけのくに)の豪族であった藤原秀郷(ふじわらのひでさと)が、河内国(かわちのくに)丹南郡(たんなんぐん)から5人の鋳物師(いもじ)を連れてきて、金屋寺岡(かなやてらおか)〔現在の足利市(あしかがし)寺岡町(てらおかちょう)〕に住まわせ、武器などを作らせたのが始まりだと言われています。 また、その頃には既に関東地方(かんとうちほう)で鋳物業が発達していて、天慶の乱(てんぎょうのらん)以降、下野天明の鋳物業がより盛んになったと言う考えもあります。 室町時代(むろまちじだい)になると、天明宿(てんみょうじゅく)に多くの鋳物師が住み、”尾嶋天明衆(おじまてんみょうしゅう)”、”嶋田天明衆(しまだてんみょうしゅう)”などと呼ばれる集団を作って仕事をしていました。 彼らは、活動を掟によって保護され、ますます活動が盛んになり、大きく成長をとげました。 また、茶の湯の流行により、野趣(やしゅ)に富んだ素朴な作風が好まれ、優れた技術と合わせて、筑前(ちくぜん)の芦屋(あしや)の釜と並んで全国にその名を知られ、「関東(かんとう)の天明釜(てんみょうがま)をもって、良となす」と称賛され、天下にその名をとどろかせていました。 江戸時代(えどじだい)には、京都(きょうと)の公家である真継家(まつぎけ)の配下の御用鋳物師として権威を誇り、領主からも保護を受けて活躍していました。 天明鋳物師たちは、鋳物師20人前後とその下で働く何十人かの鋳掛師(いかけし)とを合わせた数十人からなる組織を作り、閉鎖的で、特権的な集団で生活していました。 この組織のもとで、寺社の梵鐘(ぼんしょう)、半鐘(はんしょう)、鰐口(わにぐち)や灯ろう(とうろう)、擬宝珠(ぎぼし)、仏像、そして日常的な鍋、くわや農具、茶の湯釜など数多くの鋳物製品が作られ、越名(こえな)・馬門(まかど)河岸(かし)から船で江戸方面に出荷されました。 幕末、真継家の衰退とともに、鋳物業の組織も弱くなり、明治(めいじ)には組合が無くなっていきました。 明治以降は、他の鋳物産地の発展やアルミニウム製品の進出など、社会の変化に伴い、佐野の鋳物業が衰え、第二次世界大戦(だいにじせかいたいせん)では、多くの作品を失いました。 現在では何人かの人たちが、工芸品や機械部品などを作り、天明鋳物の誇りと優れた技術が継承されています。 天明釜の特徴 1.全体の姿に簡素な趣があり、独創的な形 2.肌は荒肌 3.図文はない 4.口造りは甑口(こしきぐち)(まっすぐに立上がったもの) 5.鐶付(かんつき)はいろいろな形 用語解説 ●下野国 現在の栃木県(とちぎけん)あたり ●河内国 現在の大阪府(おおさかふ)あたり ●天慶の乱 平安時代中期、関東で起こった内乱。 平将門の乱(たいらのまさかどのらん)とも言います。 ●天明宿 現在の佐野市あたり ●筑前の芦屋の釜 福岡県(ふくおかけん)遠賀郡(おんがぐん)の芦屋で作られた茶の湯釜で、肌の木目細かいのが特徴です。 ●真継家 京都の公卿(くげ)で、鋳物師文書の収集により全国鋳物師の支配を認められていました。 |