[会津(會津)の歴史]
大和朝廷は全国統一に乗り出し東征軍を興し、紀元前88年、 時の崇神天皇は四道将軍を派遣して国々を鎮定した。この時北陸地方から進んだ大彦命と東海地方から進んだその子武淳河別命のお二人がこの地の湖の辺りで巡り合われたと云うことで「相津」の名が付けられ、後に「会津」と改められました。会津はその後肥沃な土地と気候から農耕が発達し、一方で高寺や慧日寺にみられるように仏教文化が栄えた。武士の時代に入ると会津は交通の要所であり、四方山に囲まれた自然の要塞であり、また豊饒な土地柄から東北の護りとして優れた武将が領主となった。鎌倉時代には芦名氏、戦国時代には伊達政宗、蒲生氏郷、上杉景勝、蒲生秀行、加藤嘉晃そして徳川幕府も安定した寛永20年、三代将軍家光の弟、保科正之が23万石で移封」された。二代目以降松平姓となり、代々徳川家の親藩として幕政の中枢として活躍したが、九代藩主松平容保は幕末、京都守護職として王城の神護と京都の治安にあったが、尊王攘夷派と対立することとなり、1868年西軍に大挙して攻められ、会津藩は降伏を余儀なくされ天下の名城「鶴が城」は敵方に開城された。

鶴ヶ城

磐梯山
この時燃える街並みをお城の炎上と思い自刀した15 〜17歳の白虎隊士や薙刀を持って敵に立ち向かった娘子軍のことは後世に語り継がれている。天下の名城「鶴が城」はこの戊辰の戦いでは残ったが、明治9年陸軍省の命により取り壊しとなり、石塁と濠を残すだけとなった。現在ある天守閣は昭和40年に再建されたもので、悲劇の象徴とも云われるが、往時の偉容を偲ばせており、市民の心の象徴となっている。