寛政8年 |
1796年 五代林和右衛門は、御用達頭取に任じられ、知行454石を賜る。(町方としては全く異例のことである)上方への取引が大きくふくらむ。 |
安永6年 |
陶器の改良、有田焼(鍋島藩)の秘法を得る為、大阪布屋の協力で本郷の陶工を有田に潜ませ技法を手得、本郷焼を一躍高級品として位置づけた。他に、漆器の改良、絵師の育成などに尽力。 |
明治5年 |
維新にいたり材木町 林賢蔵が、本家永宝屋より、みそ、醤油部門を引き継ぎイゲタを名乗る。その後、品質の向上に力を注ぎ、会津方部はもとより、いわき地方、米沢方面に進出。特に入山炭田(常磐炭鉱)一帯で声価をあげる。 |
大正7年12月16日 |
林合名会社設立。商品の改良と開発に力を注ぎ、その良さが次第に世間に認められ、仙台方面に進出。昭和に入り、うすくち醤油の開発に成功、次第に販路は拡大し青森まで辿りつき戊申の役後、会津藩が移封された斗南の地浅虫、大湊を中心とする下北半島まで拡大し、東北の雄としての地歩を築く。 |
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昭和13年 |
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醤油は、陸軍御用となり、生産販売ともに増大し会社大いに栄える。 |
昭和18年 |
帝国陸軍により軍用機の献上を命ぜられる。代表社員林健次郎は、大いに苦労し資金を調達、戦闘機「隼(はやぶさ)」を献納、第6231号林合名第一と命名され、太平洋戦争の渦中に飛び立つ。 |
昭和22年 |
食糧管理統制令が施行され、配給原料が減ぜられ生産量が縮小される中販路は、会津、浜通り、新潟の下越、中越と厳しく限定され販売量は減少。先の戦闘機の後遺症もあり、次第と経営上行き詰っていく。 |
昭和28年 |
食管法の一部廃止に伴い醤油販売競争は一段と激化、わが社も仙台、青森ルートを確保。 |
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戦闘機 愛國第6231(林合名第一) 陸軍省
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昭和30年 |
統制時代に食品日用品販売の為設立された商業協同組合が、次第に時代のニーズにより取り残され倒産や解散が続き、わが社も販路を閉ざされる状態になる。 |
昭和40年 |
販路拡大の営業努力を続ける中、COOP福島県生協連と取引成立。僅か数年で消費者組合員の圧倒的支持を受け、日本生協連との取引に発展。COOP会津みそは全国にひろがる。全国版として「コープ会津みそ」の市場が確立、醤油の売り上げをしのぐ勢いとなった。 |
昭和50年末〜60年代 |
COOPみそが縮小する中、醤油に東北各地の大手問屋、量販店との取引が成約、みそとは逆に出荷量が大幅に伸びだした。 |
平成〜 |
調味醤油「彩」の開発に成功。味の良さから口コミで急速に売り上げを伸ばし始めた。このころ、自然食、健康食の開発に成功。関東方面に進出、順調に推移。現在は「食の安心、安全」に最大の留意を払いつつ、品質の改善、新商品の研究、開発に全力を挙げ、会社の発展に努力している。 |