[経歴] 
私の幼馴染というか同じ那須町立稲沢小学校、伊王野中学校で学び育ちましたが、全く別々の道を歩んできました。彼は小柄でしたが、運動神経が良く小学校の野球では、セカンドを守っていたのを覚えています。運動神経があまりよくない私は補欠です。
中学校では彼との付き合いは覚えていません。中学を卒業すると彼は地元の大企業だったブリヂストン那須工場に勤めました。私達の昭和25年生まれは、集団就職があり、中学を卒業すると同時にかなりの者が就職するか、地元の職業訓練校に1年程の訓練を受けてから就職して行きました。彼との付き合いは、子どもの頃は稲沢部落と沼野井部落と離れていたせいか、学校以外で遊んだ記憶がありません。
私は、地元の進学校を卒業し東京の六大学のひとつに進学しました。その後8年程経って妻と子供を連れて田舎に戻り、養鯉、養豚の農業をやりましたが、29歳で日本ビューホテル(株)那須事業所に勤めました。彼と同級会で時折に出会うことはありましたが、一緒に呑みに出歩くことはありません。彼は誰ともそうだったように思います。
ホテルをリタイアし還暦の時、彼はブリヂストン栃木工場の生協専務理事でおり、お取引きの便宜を図ってもらいました。長年ブリヂストンに貢献した彼に対する会社の褒章だと思います。それからが、近しくなった所以です。彼の話を聞くと、中学卒業と言いながらも異例の出世をしたと聞きます。アイデアマンで、一生懸命に仕事に取組み、2003年9月8日ブリヂストン栃木工場の火災の折に陣頭指揮を執り大活躍をしたと言います。現場叩き上げの経験と彼のリーダーシップの賜物でしょうか。
彼は、誠実一路の苦労人です。小学校、中学校と決して裕福に育ったとは思いませんが、兄弟や同じ部落出身の友達の面倒をよく見ています。
還暦の時の集いで、彼は老人ホームの慰問を決意したと抱負を語ってくれました。200回目標で行うと言っていました。元々演歌が上手く「綾小路きみまろばりのトークと歌」で、慰問を楽しんでいます。一度飲み会で披露してくれましたが、才能ですね。我々一同を大いに笑わせ呻らせてくれました。
家を三度建て替えたと言います。
現在は、広い敷地に御子息夫婦と一緒に住んでいます。
素敵な奥さんを迎え、お孫さんにも恵まれて、古希を迎えて働く必要など何もないのですが、性分と言うのでしょう。何かをしていないといられない性格のようです。
彼は、「じーちゃんの煮玉子」で、下野新聞やTVにも取り上げられ、地元では有名人です。また、その後に「年金酒場」という居酒屋を立ち上げて、同世代の者達のたまり場にもなりました。コロナ禍から、それも昨年の11月一杯で閉店しましたが、その後にこちらの那須ガーデンアウトレット関係から、鮎の塩焼き「鮎くうべえ」をスタートしました。
先日、薄井静雄さんから、相談があると連絡がありました。きっと私の通販関係「手仕事専科」のことかと思いながら伺うと、アウトレットで鮎の塩焼きを遣っているのだけれども、それ以外に通販で、販売したいというのです。
ホームページ作りの概要を相談し、販売を受けることにしました。彼の人柄から、少しお役に立てればと思っています。
我々昭和37年度稲沢小学校卒業生の星、「薄井静雄の鮎くうべえ」です。
私達同級生は、彼の人柄からの生き様に心服しています。人助けに生きる彼の鮎をご紹介したいと思います。宜しくお願いいたします。

               -2021.03.15-